目が悪くなったこと

「目」に関する話題が出るときは
−疲れた
−悪くなった
のどちらかの言葉が続いていく。
季節会話のような無難なやり取りとして便利に使っていたが、
最近その「悪くなった」度合いがひどくなってきている。


私は生まれつき目が悪かったため、
2歳まで物が見えないことはごく当たり前の事だった。
その状態を「目が悪い」と気がつかせてくれたのは、
子供用の遠視の強いメガネだった。
このメガネをかけることでこれまでの世界は「見える」ということで一変し、
また同時に、少年時代はメガネを揶揄されるという宿命が始まった。


それも大人になるにつれ、目が悪いことはそう珍しいことではなくなる。
その頃に何故か視力が回復し始め、
遠視の特性で遠くは見えるため、運転免許は裸眼で取得した。


本などを読むためにメガネはかけ続けてはおり、
徐々に物が見えなくなってきたなぁとは感じていたが、
それが、ここ2ヶ月ぐらいで落下傘のように視力が低下し始めた。
まず、ある朝に新聞を読もうとしていたら、ほとんど読めない。
遠くは見えるから良いが、本などの小さな字を読むときには
相当気合を入れて、目からの距離を調整しなくては判別できないような状態になった。


いまでも、文字を書いたり読んだりするときには
全体の字の印象をボワーっと掴んで、なんとなく何が書いているか類推している。


でも、目が悪くなったことに対して、不思議と焦りがない。
それは、大抵のことが大体でいいや、という心境になってきているからだろう。
いわゆる、「なんとなく」見えれば言いわけで、「適当に」見ていればいいわけだ。
話してても、相手の表情の変化もどうせ良く分からないから楽ちんだ。


あー、年取った人が自由奔放なのは、
こうやって大体で物事を見て、適当に都合のよいことだけを聞くようになったからなのか、
と一人で得心した。